25木下富雄はウイニングボールを掴む男 [広島東洋カープOB]

木下富雄(きのしたとみお)

1951年生まれ。内野手。右投げ右打ち。

1973年ドラフト1位でカープ入団。埼玉県立春日部高校→駒澤大学。背番号25

実働14年、1364試合出場。通算583安打。タイトルとは無縁。規定打席に立ったこともゼロ回。だけど木下はリーグ優勝5回と日本一3回に欠かせない名脇役でした。

もくじ
■入団直後に訪れた危機
■プレースタイルと風貌
■優勝の影に木下あり
■東出の影に木下あり
■カープ鳥きのした


 

入団直後に訪れた危機

私が物心ついた頃、既に浩二衣笠ミスタープロ野球でした。王貞治の引退は1980年。

木下富雄さんは駒澤大学出身。高校は広陵かの?広商かの?と思いきや、埼玉県立高校のご出身。木下さんはバリバリの埼玉県民。ごめんなさいね。私マジメにさっきまで木下富雄は広島の人だと思ってました。笑

木下は1973年にカープからドラフト1位で指名されました。当時のカープはまだ衣笠(27)が背番号28番でファーストを守っていました。ショートには三村敏之(25)。この二人はバリバリのレギュラー。サードとセカンドのレギュラーが固まっていなかった。苑田聡彦(28)、上垣内誠(29)らが伸び悩み。

ルーキーイヤーは「ショート木下、セカンド三村」で56試合ほどスタメン出場ましたが、木下の打率は1割台でした。

そして2年目に早くも木下の大ピンチが訪れます。

 

1975年新監督のジョー=ルーツがトレードで日本ハムの大下剛史内野手(31)を獲得。大下はバリバリの1番バッターでポジションはセカンド。ド迫力の駒大の先輩。

さらにファーストにゲイル=ホプキンス(32)が入り衣笠祥雄がサード転向、背番号も3。

内野のポジションが全部埋まり、赤ヘルV1戦士のレギュラー陣がガッチリ固まりました。

木下の2年目はわずか26試合、12打席に終わる。カープ初優勝。

 

1975年のドラフト1位は北別府学(18)。1976年のドラフト1位は内野手の山崎隆造(18)。

1977年に三村敏之が故障して4年目の木下(26)は46試合スタメン出場、44安打とまずまずの活躍。同じ年、三村の故障に付け込んだのがプロ3年目の高橋慶彦(21)でした。慶彦は35試合スタメンの38安打。

1978年、背番号2を受け継いだ高橋慶彦(22)が開幕1番ショート。打率3割ベストナイン。木下(27)も大下に代わり2番セカンドを務めることが増え、63試合にスタメン出場。

1979~1980年も三村や山崎隆造とセカンドで併用される。

 

プレースタイルと風貌

木下富雄は大型遊撃手として入団。身長182cmは当時の内野手としては極めて長身でした。

クリーンアップを打つ選手には180cm以上の選手もいましたが、当時の二遊間に180cmの選手がいるのは奇妙な光景でした。高橋慶彦と山下大輔が176cm、真弓明信は174cm。河埜和正は180cmでしたが、足が短くガニ股で背が高く見えませんでした。

その点、木下は足が長くて背筋もピンと伸びており、昭和50年代の「ずんぐりむっくりの日本人体型」とは全くかけ離れていました。ピンチの場面でマウンドに集まると、水谷実雄や衣笠よりも木下の方が長身でした。

二遊間の守備では腰が高く、長い手足を伸ばすように捕球していました。「腰を落として捕れ!」と言われてた時代に木下は今風の「腰高シングルハンドキャッチ」が上手かったです。

3塁の守備では二遊間の時より深く腰を落としていたような気がしますが、さすがにもう覚えてません。二遊間では早く動き出す姿勢で構え、3塁の時は強い打球に備えていた感じでした。強肩にも定評がありました。

 

攻撃にも様々なバリエーションがありました。

バントも上手い、右打ちも上手い、決め打ちすればレフトにホームランも打てる。

盗塁は慶彦のように「行くぞ行くぞ」ではなく、山崎隆造のように「気配を隠してコッソリ走る」タイプでした。規定打席未満ながらシーズン25盗塁を記録したこともあります。

「隠し球」もよく言われますが私は覚えていません。アイルランドの隠し球はよく覚えてます。珍プレー好プレーで見たのです。

 

そして木下富雄と言えばトレードマークのヒゲ

現役時代ずっと生やしていたイメージですが、確か1回ヒゲを剃ったシーズンがあったはずです。けっこうビックリしたことを私は覚えている。何年だったっけなあ・・・

高橋慶彦がヒゲを生やしたシーズンもあったような気がする。なんか流行ってたんですよ、ヒゲが。阪神の江本孟紀が「口ひげブーム」の火付け役だったと思います。

 

優勝の影に木下あり

木下富雄は実働14年。その選手生活のほとんどはレギュラーの控えでした。いや、控えと言うより「5人目のレギュラー内野手」と呼んだ方がふさわしいかもしれない。

若い頃は大下三村に勝てませんでしたが、1980年以降は「三村→山崎隆造→アイルランド」を抑えて木下富雄の方がレギュラー格で出る機会も多かったです。

ただ古葉監督の理想のチームは何でもできる木下をベンチに残し、1点を争う場面で木下を自由自在に使いたかったんだろうなあ、とも感じられました。

 

木下富雄は1975年の初優勝から数えて「5度の優勝と3度の日本一」に貢献しましたが、全8回の「優勝決定の瞬間」のうち、木下は実に6回もグラウンドに立っていました。

整理します。

参考:カープ優勝の瞬間、グラウンドにいた9人(1975~1986年)

【1】1975.10.15 後楽園(金城、水沼、久保、大下、衣笠、三村、水谷、浩二、深沢)

【2】1979.10.6 広島 (江夏、道原、衣笠、木下、中尾、慶彦、岡、浩二、ライトル)

【3】1979.11.4 大阪 (江夏、水沼、衣笠、木下、三村、慶彦、岡、浩二、ライトル)

【4】1980.10.17 新幹線

【5】1980.11.2 広島 (江夏、水沼、衣笠、山崎、木下、慶彦、デュプリー、浩二、ライトル)

【6】1984.10.4 横浜 (小林、達川、衣笠、アイルランド、木下、慶彦、浩二、長嶋、山崎)

【7】1984.10.22 広島 (山根、達川、長内、木下、衣笠、慶彦、小川、長嶋、山崎)

【8】1986.10.12 神宮 (津田、達川、衣笠、正田、木下、慶彦、浩二、長嶋、山崎)

数えてみると全7回の胴上げに連続出場したのは衣笠祥雄ただ一人。さすが鉄人。

浩二と衣笠が胴上げの瞬間グラウンドにいるのは当然として、木下富雄が2人と同じ頻度でグラウンドに立っていた事実こそ、木下がいかに「高いレベルでのユーティリティープレイヤー」だったかの証であります。

さらに木下は「優勝を決めたラストプレー」にも2度絡んでいる。

1979年のリーグ優勝の時は木下がセカンドライナーを捕球して1塁衣笠に転送、ダブルプレー。

1980年の日本シリーズ第7戦では木下がサードゴロを捕球、2塁山崎隆造→1塁衣笠。ダブルプレー。

ウイニングボールを捕球したのは衣笠ですが、投げたのは木下です。

 

東出の影に木下あり

カープ優勝の影に名脇役・木下富雄がいた。

さらに木下は3塁コーチャーとして1991年の胴上げにも参加しています。

津田恒美が脳腫瘍でチームを離れ、野村謙二郎がグラウンドでビール掛けをした時、木下富雄は守備走塁コーチとして山本浩二監督を支えていました。

2001年~2005年には2軍監督。この頃は天谷宗一郎とか白濱裕太といった10代の若手の他に、1軍で大ケガをした尾形佳紀や河内貴哉も2軍暮らしでした。

さらに1軍で居場所を失った中堅の新井貴浩(28)や東出輝裕(24)も2軍に落ちてきました。

特に2003~2005年の東出輝裕は本当に悲惨でした。23~25歳の3年間をノイローゼ&イップスのような状態で過ごしました。東出は木下監督と二人三脚でみっちり鍛え直し、2006年にようやく1軍復帰。以後ベストナインを2回獲得して国内FA権まで獲得。東出は1億円プレーヤーとなることができました。

後に暗黒時代のカープを支えることになる栗原健太や大竹寛も木下チルドレンです。

 

カープ鳥きのした

木下さんは2005年限りでカープを退団。

テレビ解説と並行して「カープ鳥きのした」をオープンされました。

カープ鳥きのしたのtwitterをフォローするとフォローバックしてもらえます。←たぶん。私はしてもらえました。

カープの選手名を付けた焼き鳥も美味しそうですが、天谷宗一郎の話では油そばが美味しいらしい。ご本人はもつ鍋を推していらっしゃる。冬期限定でしょう。

以上まとめると、強いチームには優秀な脇役が控えているということです。

高橋慶彦がケガした時、ショートに木下が入り「慶彦より上手いじゃん!」と思ったこともしばしばです。現代で例えるならば小園海斗や林晃汰のバックに田中広輔が控えているようなものなのです。

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おしまい
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ありがとうございました。

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