0長嶋清幸[広島東洋カープOB]

投稿日:2018年10月20日 更新日:

長嶋清幸(ながしまきよゆき)
1961年生まれ。外野手。左投げ左打ち。
1979年ドラフト外でカープ入団。静岡県自動車工業高校。背番号66。
プロ通算1091安打。通算打率.271。108本塁打。
ドラフト外でこの成績は凄い。清原和博の通算打率は.272。

もくじ
■プロ野球初の背番号0
■山本浩二からセンターを奪った男
■長嶋が打率.300を打ったことがない
■ケンカっ早い
■長嶋清幸の晩年

■プロ野球初の背番号0
プロ3年目の1982年に一軍で79試合に出場。44安打を放つ。先発出場は39試合。
1982年のカープの外野陣はライトライトル(36歳)、センター山本浩二(36歳)、レフトガードナー(30歳)
山崎隆造(6年目24歳)は当時まだ内野手(二塁手)でした。

1982年のオフに長嶋は背番号1ケタを希望。
このオフはカープの歴史的な「若返りのシーズン」で
山崎隆造が23→1
期待のホープ斉藤浩行が39→7
優勝請負人ライトルが退団。背番号6はトレード入団の加藤英司。
背番号4だった水谷実雄は加藤英司とトレードで阪急へ。背番号4は新外国人アイルランド
ガードナーも退団。背番号5は即戦力ルーキー定岡徹久。定岡3兄弟の末っ子。

2は慶彦で9は三村敏之。3と8はもちろんあの人。
長嶋清幸が希望する1ケタの番号はなくなりました。
そこで長嶋、自ら古葉監督に提案。
「ゼロ番はダメなの?」

当時のNPBの野球協約では公式戦に出場できる選手の背番号は「1~99まで」と決まっていたはず。
なぜ長嶋清幸が0番を背負うことができたのかは定かではありません。
メジャーリーグで活躍したアル・オリバー外野手(左投げ左打ち)がトレード移籍をきっかけに背番号0を付けたのは1978年。
オリバー選手は打率3割常連の名打者。
1982年シーズンにナショナルリーグにトレード移籍して首位打者を獲得。
長嶋はこの選手にあやかって背番後0を希望。
おそらく「新しいもの好き」のカープ球団がNPBに掛け合い、オッケーをもらったと思われます。
ちなみに1982年にオリバー選手と交換トレードに出されたのがラリー=パリッシュ(元ヤクルト・阪神)、ホステトラー(元南海)の2人でした。奇遇。

■山本浩二からセンターを奪った男
1982年の長嶋清幸(21歳)は79試合に出場するも守備位置は主にレフトとライト。
調子の上がらないガードナーやライトルの代わりに6番や7番で先発することが多かった。
1983年は36歳の山本浩二をレフトにコンバートし、まず山崎隆造がセンターを守りました。
しかし木下富雄の調子が上がらず、アイルランドも打てないことから、山崎が2塁、長嶋がセンターを守るケースが増えました。

夏場以降はアイルランドが2塁に定着し、打率.297、本塁打12本と活躍。
んで、アイルランドは他のとこでもいろいろハッスル。笑
山崎は7月以降、再び外野での出場が増えるが、安定したキャッチングと広い守備範囲を誇った長嶋がセンターに入り、強肩の山崎はライトルの後釜となるべくライトに落ち着きました。

結局この年の山崎隆造は初めて規定打席に到達し打率.305、26盗塁。
長嶋清幸は全130試合に出場。打率.295、本塁打13本、12盗塁。
2人揃って初めてダイヤモンドグラブ賞を獲得しました。山崎25歳、長嶋22歳。


■長嶋が打率.300を打ったことがない事実は当時の「プロ野球七不思議」だった
背番号0をひっさげて1983年から1987年まで安定した活躍を見せた長嶋清幸。
優勝2回、日本一1回を経験。
1984年は自身最高のシーズン。23歳で日本シリーズMVPを獲得。
江川と西本からの2試合連続サヨナラホームランもこの年。

私は山本浩二の引退した1987年シーズンには
「長嶋が四番でいいんじゃね?」
と思っていました。
長嶋の打球は左中間に伸びるんです。ライトに引っ張る時よりもレフト方向の打球のほうがよく飛ぶんじゃないかと思うくらいの広角打法。
しかし阿南監督は新外国人ランスと長距離砲の小早川毅彦、長内孝、斉藤浩行らを候補としていました。
1試合くらいあったかな・・・4番センター長嶋?オープン戦で。←未確認

この頃の長嶋本人は「今年は盗塁王を狙おっかなw」とか言ってみたりして、あんま四番打者に色気を示すことはありませんでした。
しかし1984年以来「ミラクル長嶋」と呼ばれて、数々の印象深い一打を放った長嶋。
私は長嶋を四番に推していました、当時。
今で言えば誰だろう・・・西川龍馬みたいなバッターです。笑
1987年頃のプロ野球ニュースでは「長嶋が一度も3割を打ったことがないのが不思議だ」とよく解説者から言われていました。特に関根潤三さんから。
こういうとこも西川っぽいです。笑

■ケンカっ早い
1988年の中日戦での大乱闘、大暴れが有名。
当時はインターネットなどなく、慶彦や津田に比べてマスコミへの露出も少なかった長嶋がこんなに暴れん坊だったことを私はこの事件で初めて知りました。
その後、中日にトレード移籍。ロッテ阪神にも移籍して引退。
中日のコーチを長いことやってましたが、その頃もあの乱闘騒ぎの一件が私には引っかかっていました。
んで、2006年に当時の中日監督、落合博満や高代コーチと大げんかして退団。
2014年に中日コーチに再復帰しましたが大丈夫なんでしょうか? 笑

■長嶋清幸の晩年
カープ退団の経緯はいろいろありますが、一番は前田智徳(19歳)の台頭。これに尽きます。
1989年のオフに高橋慶彦がロッテに移籍。交換でカープに入団したのが高沢秀昭(31歳)。
1990年は3番センター高沢でスタートするが高沢が打てないので長嶋がセンターに戻る。
当時長嶋は29歳。
高沢も名手でしたが、長嶋がセンターを守る時、高沢はライトでした。19歳の前田はレフト。
カープは伝統的に上手い外野手からセンター→ライト→レフトの順に並べます。
よってこの頃の外野手は例えば高沢がセンターで先発して、守備固めAが登場するとライトに回り、守備固めBが登場するとレフトに回る・・・なんてことが多かったです。

長嶋は1984年以来、私の記憶ではセンター以外を守ったことは一度もありません。
長嶋センターで前田がレフト。若き緒方孝市(22歳)はライトでした。
それほど長嶋の守備はカープの中で絶大な信頼を得ていました。
オールスターでレフトかライトを守った時はなんでやねんと思いましたよ。
90年オフにいろいろあって中日へトレード移籍。
翌91年は2番センター前田でカープはリーグ制覇。レフトとライトは西田真二、アレン、山崎隆造らが守りました。
長嶋は中日ロッテ阪神ではいまいち輝けず1997年に引退。実働18年でした。

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おしまい
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