00ロデリック=アレン[広島東洋カープOB]

2018年10月30日

ロデリック=アレン
1959年生まれ。外野手。右投げ右打ち。
1989年にカープ入団。背番号49→00
同期入団はウェイド=ロードン三塁手。

もくじ
■全然打てそうになかった(笑)
■優勝チームの四番だった
■守備も下手。足はけっこう速い
■応援歌がおニャン子クラブ
■カープ初の背番号00

■全然打てそうになかった(笑)
1988年オフに阿南監督が勇退。満を持して山本浩二新監督(42歳)が誕生。
浩二が初ドラフトで1位指名したのが野村謙二郎。
そして浩二が初めて連れてきた外国人がロードンとアレンでした。
ロードンは眼鏡と細身の風貌で「銀行員」と呼ばれ6番7番の候補。
アレンは黒人の大男。しかも前年3Aの三冠王。カープでは5番レフトの候補でした。

ロードンはオープン戦で打ちまくり、1989年の開幕戦は3番サードでスタメン出場。
アレンはオープン戦でイマイチでしたが、コワモテの顔と3Aでの実績から5番レフトで開幕。
ちなみに四番は長内孝。

アレンの腕は太いが下半身が細く、パワーヒッターと言うよりはリリーフ投手みたいな体格。
体も固くてヒザが全然曲がらない。
低めの変化球にも突っ立ったまま短い腕を力尽くで振り回す。
あたしには全然打てそうな感じがしませんでした。
1年目のアレンにはチャンスで打てるイメージが全然なかった。
でも数字を見れば1年目に80試合で打率.300、11本塁打を記録している。

2年目の契約はないと思ったがカープに残留。
1990年は開幕直後の5月10日のヤクルト戦で3打席連続ホームラン。代打からの途中出場で。
12日の巨人戦で第1打席にホームラン。四球を挟まない4打席連続本塁打。私はたいへん驚いた。
1990年はこの大活躍などもあって98試合で打率.323、25本塁打。
ちなみに89年と90年のカープは2年連続2位。
藤田巨人が斎藤雅樹の連続20勝などで2年連続ぶっちぎり優勝でした。

■優勝チームの四番だった
1991年。山本政権3年目。
前年の好成績で開幕4番はアレンでした。5番はバークレオ。
1番は前田智徳(19歳)で7番に江藤智(20歳)。また見たい、夢の開幕オーダー!笑
アレンは春先から苦しみ、早々に4番の座を西田真二に譲る。
カープは中日と優勝争い。佐々岡真司と野村謙二郎が獅子奮迅の活躍。
北別府・大野・川口は若者たちを後方支援。

アレンも勝負所の9月に戦線復帰。
右投手の時は4番レフト西田。左投手の時には4番レフトアレンで戦う山本カープ。
この年のチーム本塁打王は江藤智。その数なんと11本!笑
2位がノムケンの10本、3位がアレンの9本で、4位タイに正田耕三の8本。笑
アレンは粘り強いバッティングで相手エースの今中慎二や山本昌広に立ち向かっていくのでした。

んで日本シリーズは7戦全部に4番で出場。
ホームラン2本を放ち活躍しましたが敢闘賞は川口和久に取られてしまいました。
んで、惜しまれながら退団。
以後25年間アレンは「カープ優勝時の最後の四番バッター」だったのです。
西田かと思ってた。汗

■守備も下手。足はけっこう速い
守備はもちろん下手。守備範囲も狭いし肩もめちゃくちゃ弱い。
1990年はレフトアレン、センター西田、ライト長内という試合が度々あり、もう浩二では絶対勝てないと思いました。苦笑
当時の浩二もかなりの左右病でしたからね。
西田に代えて小川達明とかありました。どんだけ見る目ないねん。

ただアレンの足は案外速い。
お嬢ちゃん走りなんですが、ちょっぴり速い。
一番速かったのが大洋・大門乱闘事件。
いつもやれよ!と思いました。


■応援歌がおニャン子クラブ
アレンの応援歌は生稲晃子さんの「麦わらのダンス」
野村謙二郎は爆風スランプの「RUNNER」
なんでコワモテのアレンがおニャン子クラブかと言うと、アレンの前にカープに2年間在籍したリチャード=ランスの応援歌を引き継いだものだから。
「麦わらでランス」だったので。
んで、1988年にランス退団。
1989に入団したアレンが同じ長距離砲だったので「麦わらのダンス」引き継がれました。

 

■カープ初の背番号00

1988年、阪神タイガースに途中加入したルパート=ジョーンズ。
彼がNPBで初めて背番号00を背負いました。
当時の阪神は1番から50番まで空き番号がなく、ルパート=ジョーンズはMLB時代にも背負ったことのない00を選択。
ルーレット以外で00なんて数字を見たのはこれが初めてでした。
んでアレンはなぜか3年目に背番号を49から00に変更します。
49が似合っていてカッコ良かったので、正直00番は残念でした。だってカッコ悪いんだもん。

00番のルパート=ジョーンズはランディ=バースの代わりに入団しましたが、阪神でボロボロ。
49番の代表選手ウォーレン=クロマティは規定打席に到達しての打率.410とかやってた時代ですからね。
アレンも49番のままで良かったのにと思いました。
ちなみにアレンの退団後、1992年にカープに入団したのが後の監督、マーティ=ブラウン。背番号は43。
アレンが00に変更した後、49番を付けたのは野林大樹。
1991年に清川栄治とトレードで近鉄からカープに入団。
この人、中田廉の実のお父さんです。
中田廉は2007年に広陵高校2年生で春の甲子園に出場。
この時は野林廉で出場。背番号10で剛速球を投げていました。1番は野村祐輔。
2年生の夏は不調でベンチ外。この夏がノムスケ&小林誠司が佐賀北に満塁ホームランを打たれた年。
3年生の夏は中田廉の名前と背番号3で出場。まだ完調ではなかった。でもすぐわかったよ。あの時の野林だって。
そしてその秋、中田廉はカープからドラフト2位指名を受け入団しました。
アレンと関係ない話でした。すんません。

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おしまい
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